中受のGHG

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首都圏の中学受験、公立中高一貫校の受検、勉強法、国語、社会についてのブログ

名門校とは何か 「麻布中学と江原素六」から

麻布といえば、 戦後の新学制が始まってから一度も東大合格者ランキングで10位以下になったことがないという、言わずと知れた名門中の名門です。

自由どころか奔放とさえ言える校風と、「ドラえもん問題」に代表される一風変わった入試問題を作るなど、ユニークさに事欠かない逸話でもその名を轟かせています。

一部の企業の採用では、出身大学と同じくらい、出身中・高を重んじるという話もあるようで、たとえば開成から東大、麻布から東大、灘から東大では同じ東大でも能力や適性がまるで違うとのこと。

具体的にどう異なる物差しなのか大変興味深いところですが、それら名門と呼ばれる中・高が人格形成において強力な影響力を持つことを考えると、頷けることでもあります。

基本的に教員の異動がない私学では、創立者のキャラクターが今でも色濃く残っています。学校を知りたければ建学者を知れ、と言われるくらい、学校の方向性と校風を決める上で大変重大な役割を果たしているのです。

 

麻布の創立者、江原素六は旧幕臣の家に生まれ、赤貧を絵に描いたような貧乏御家人として育ち、学問で身を立てました。幕末の動乱期には幕軍に拠って戊辰戦争を戦い、明治になると旧幕臣の困窮を救うために奔走しました。

そういう人物なので、官僚嫌いは徹底していたようです。早くから野にあって人材を育て、民間の力で日本を盛り立てようとしていました。

麻布中は、前身を東洋英和学校といい、今の東洋英和女学院とおなじくミッションスクールでした。明治初期、日本が欧化政策を推し進め、文明開化ブームに沸いていたころ、ハイカラで英語教育に優れるキリスト教系学校は一世を風靡したそうです。

ところが、明治も後期になると、欧化ブームは去り、国家主義的な色合いが濃くなります。そのような時代の雰囲気の中で、徐々にミッション校は人気を落としていき、上級学校への推薦制度の枠からも外されるようになっていきます。

江原素六が校長になったのは、東洋英和学校が生徒募集に苦心し、経営が行き詰まってどうにもならなくなった時期でした。

学校を建て直すため、江原はミッションの看板を外し、普通教育を忠実に行う学校へと変身させます。ここからが「麻布」の始まりです。

自身がキリスト者であり、官による強制を嫌った江原をして、キリスト教教育を捨て、国の定める制度に従うということは、なんとも矛盾に満ちたことです。

自由奔放で特異な校風で知られる麻布でも、そのスタートは妥協と従属から始まったというのは、むしろ感慨深いエピソードと言えます。

どんなに高い理想を掲げていても、それを受け継いでくれる生徒が集まらなければしょうがない。柔軟さとある種の割り切りから、物事は始まるのだということかも知れません。

 

江原素六は、生徒に対しては過度とも言えるくらい寛大な姿勢を貫いた人物としても知られています。

遊郭帰りで朝帰りをした寄宿生を笑って許したとか、そういうエピソードがこれでもかと残っている。そういう創立者への敬慕が、麻布の自由の根源であると知ることができる本である。

 

麻布中学と江原素六 (新潮新書)

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